「お母さんのことは一生わからないかもしれません」
「皮質盲です」
低酸素脳症から一命をとりとめた息子の病状を述べた担当医の短い言葉が焼き付きました。
実際はもちろん丁寧で詳しい説明であったと思いますが私の頭には入って来ませんでした。
麻酔から覚めているはずなのに開眼しない息子の傍らに、それから数か月間どう付き添っていたのか思い出せません。
息子は、当時は療育センターでも滅多に見かけなかった『医療的ケア児』でした。
見ることに課題を抱えている医療的ケア児は、さらに少数派でした。
「お母さんのことは一生わからないかもしれません」という言葉におびえて過ごしていました。
しかし今になってみれば、そんなふうに悲観せずともよかったのでした。
見えないことはわからないことではありません。
息子は、肌に触れる手のぬくもりや、抱っこされるときの感じ、人の声、におい、足音、振動、鳥の声、街の音などを
自分の感覚を全開にして受け取り、長い時間をかけて少しずつさまざまな理解を深めていった、
もしくは取り戻していったと思われます。
育児は全く試行錯誤でした。
当時最も良くよまれていたであろうナンシー・R・フィニーの「脳性まひ児の家庭療育」には
首の座っていない障害児のことは載っていませんでした。
覚醒時間が短く体幹も首もふにゃふにゃで反応の乏しかった息子は、
それでも10年後には緊張しながら少し手足を動かし、声を出して笑うようになりました。
眼の状態はと言えば、ペンライトの光を当てられても瞳孔は散大したままでした。
「少し暗いほうがリラックスできるそうだよ」
「間接照明が良いよ」
「ペンライトの光を当てると瞳孔収縮の練習になるよ」
アドバイスをいただいては試していきました。
そして10年近くを経て、瞳孔は散大気味ではあるけれども明るい場所では少し小さくなりました。
私は嬉しくなって、息子にものを見せることをそれまでよりも意識するようになりました。
2001年12月
自作のアームサスペンダーです。
2001年12月
新調した車いすが前傾姿勢対応だったので、それに合わせてテーブルを作ってもらいました。
2002年9月
木製の立位台のテーブルで調理の活動中。
2004年7月
米を研ぐ。
しかし、その後の10年弱の変化は大きくはありませんでした。
興味を惹きそうな題材に様々に取り組んでも、触ることと見ることは息子のなかで結びついていくことが難しいようでした。
それは指の感覚が弱く腕の動きもほとんどないためばかりでなく、やはり、見ることにも問題があるからだと思われました。
光を感じた瞳孔がしっかりと反応をするようになる、そこに立ち戻ることも含め試行錯誤を続けました。
『見る』ことはあまり上達できませんでしたが、家で大学生のボランティアさんとたくさんのチャレンジができました。
プールや乗馬、上智大学わかたけサークルの活動などを通してたくさんのかけがえのない体験を積むことができました。
2009年2月
楽器を鳴らす。(療育センターOTにて)
養護学校を卒業し、重症心身障害の施設に通所しはじめて2年目くらいから、
息子の表情や声の種類が豊かになっていくのを感じました。
脊柱側弯などの二次障害が進行する一方で、大人になっても成長できる部分があるのだなと嬉しく思いました。
あるとき、息子の顔の前で私が手を動かしたときのことです。
私の手が息子の顔にさっと近づいたのでした。
すると息子はとっさに目を閉じました。
私は驚きました。もう一度、手を顔にさっと近づけてみました。また閉じました。
風が起こるためではないことも確かめました。
皮質盲の宣告から20年も経ているのですよ!
半信半疑でしたが、少し見えているのかもしれないと受け止めて前に進めてみようと思いました。
コミュニケーションボードを真似て、透明アクリル板に赤い四角と青い四角を横に並べて描いたものをつくり、
視線がとれるかどうかを試してみました。
結果はよくわかりませんでした。
それよりも左眼の外斜視が以前より進んだことに気づきました。
その後、「視線」という単語で検索をしていて、「視線入力」なるものを見つけました。
センサーが両目・片目の視線を拾うだけでなく、眼球の動きをマウスの動きに変換しウィンドウズパソコン上でクリック信号等を送ることができるのです。
これはダメ元でも取り組む価値があると直感しました。
眼による操作を息子の表現手段として育てることができるかもしれないと期待しました。
参考
触覚の世界 3 心身のはたらきとその障害シリーズ 小柳 恭治(光生館、1978年)
障害児の発達とポジショニング指導 高橋 純、藤田 和弘(ぶどう社、1986年)
からだの自由と不自由 中公新書1379 長崎 浩(中央公論社、1997年)